top of page
検索

F1🏎とホンダ

  • 陽平 丸山
  • 2023年9月18日
  • 読了時間: 4分

更新日:2023年9月20日


 

 私は、毎年、鈴鹿サーキットでF1を観戦している(写真は2019年日本GPのレッドブルホンダ)。

 F1とは、フォーミュラ1の略称で、箱型の車と違い、タイヤが、車体の外にむき出しになっている自動車レース最高峰の世界選手権だ。


 レースは、世界各地のサーキットで開催されてており、参加チームは、ドライバー、チームを率いる監督、整備員などからなる大人数のスタッフからなる。レースの開催地を、チームと共に多くの物資が移動することから、F1サーカスとも呼ばれている。F1中継のオープニング曲、T-squareのtruth♪や古舘伊知郎の解説を聴くと、当時の映像が蘇る人が、多いのではないだろうか。


 私は、中学1年生から、ホンダ(本田技研工業)の参戦するチームを応援している。ずっと、ずっとだ。

 当時のロータスホンダ(当時の車両製作チームによって、チーム名は変わる。)といえば、黄色車体に、音速の貴公子アイルトン・セナと中島悟が搭乗し、マシン、ドライバー共に最高にカッコ良かった。欠かさず、深夜にテレビで観戦し、翌日、月曜日はひどく眠たかったのを覚えている。


 1988年には、セナが、マールボロ(メインスポンサー)カラーのマクラーレンホンダに移籍し、ホンダのV6ターボエンジンが速過ぎたため、マクラーレンホンダが全16戦中15勝してしまう圧勝ぶりだった。

 そのため、翌年には、ターボエンジンは禁止となったが、ホンダV10エンジンを搭載したマクラーレンホンダは、その後も3年連続で年間王者となった。本田宗一郎が設立した小さな町工場から始まったホンダは、世界を席巻していた。

 その頃には、なんと週刊少年ジャンプがマクラーレンホンダのスポンサーにもなり(フロントノーズに小さく「ジャンプ」と貼られていた)、本紙で特集が組まれるなど、F1ブームはピークを迎えた。


 私は、社会人になって数年後、高倍率だったチケット争奪戦も落ち着き、ようやく自分でF1観戦チケットを入手することができた。そして、鈴鹿で実物を見たときは、空気の壁を突き破ってくるマシンのスピードと、耳をつんざくエンジン音にしびれた。中でも、ホンダエンジンは、各エンジンメーカーの中でも高回転型だったので、特に、甲高い音で、遠くからでも聞き分けることができた。

 アメリカのインディアナポリスでも、F1観戦したことがある。ここは世界3大レースのインディ500のサーキットである。

 意外にも、現地の日本人の観戦者が多く、また、ブラジル人の情熱的な応援に驚いた。この時は、昼食や交通手段も含め、全て自分でチケットを手配した。今となっては奇跡の海外旅行であった。 


 現在、F1の人気には陰りがある。その大きな要因として、フジテレビが地上波放送を止めたことにあると思う。

 しかし、そんな中でも、人類英知の結晶であるF1マシンは日々進化し、そのマシンを巧みに操る技術と、ハンドルに多数あるボタンを操作するドライバーも凄いと思う。

 

 F1は、見るだけではなく、ゲームにもはまった。昔、ゲームセンターには、最大8人でのコクピット型通信対戦ゲームがあり、日本の鈴鹿はもちろんのこと、ベルギーのスパや、イギリスのシルバーストーンなど各国のサーキットを、ドライバーとなって、F1カーを走らせることができ、ほとんどのサーキットを覚えていた。


 鈴鹿は、マラソン大会で自分の足で、実際のサーキットを走ったことがある。さすが、ホンダが造ったサーキットだけあり、自然の地形を利用した、立体交差もある世界屈指のチャレンジングサーキットで、各ドライバーからも人気がある。見た目以上にアップダウンが激しく、ホームストレートは果てしなく下っているように感じた。


 今シーズンは、レッドブルホンダが、7月末時点で12戦全勝し、マックス・フェルスタッペンが、ポイントランキングを独走しているが、アルファタウリホンダの角田裕毅の奮闘にも期待したい。

 今後、日本人として初の表彰台の真ん中(1位)に立てそうな日本人ドライバーがいる。現在、F2で年間チャンピオン争いしている岩佐歩夢だ。


 私は、本田技研工業の株式も保有し、株主としても応援しているし、今後も2輪も含めてホンダ車しか乗らないと決めている。

 私はホンダのF1を好きになったことから、運転のスピード感とコーナーの遠心力に魅了され、その取りつかれた魔力が、後のサーフィンへとつながっていくのである。

 
 
 

Comentários


bottom of page